I swam in the ocean

自分の中の何かしらのアンソロジーみたいなものです

勉強に関して思い出されるあれこれ

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最近はEテレを一日中つけっぱなしにしている。

国語英語理科社会家庭科音楽美術その他もろもろ全て流れているので、

なんとなーく学生時代習ったことを「あー、そういえばやったなぁ」と思い出したり、英語のフレーズを繰り返したり、普通に「へぇ知らんかった」と感動したりしながら見ている。

 

育休に入って仕事から離れ、専門学校で詰め込んだ知識も仕事で得た経験もすっからかんになって、仕事復帰できるのか最近は不安である。

 

まぁそんなこんなで、赤ちゃんがトトロ寝してる間、わたしはそこに釘で打たれたように動けなくなってしまうので本を読んだりネットサーフィンをしているのである。

 

最近『子ども世界の地図』という本を読んだ。その本に「村岡花子」という人名が出てきた時、その人物の背景を知っていたため一気に景色が広がった。

村岡花子さんというのは、児童文学者で赤毛のアンの翻訳をした方である。少し前に『花子とアン』という本を読んだので、その人名がただの人名ではなく「あの華やかな子ども時代や辛い戦争時代を乗り越えて、日本に美しい本を届けた人」という意味で捉えるかができたのである。

 

また『子どもの世界の地図』を続けて読んでいると、「阿蘇神社」が出てきた。実家が熊本なので何回か行ったことがあり「あそこじゃん!なるほどそこを通学路にしている子どもたちの地図かぁー!」とまた景色が広がったわけである。

 

「知っている」だけでこんなにも言葉から滲み出る景色が違うのか、と思った。

 

中学生の時の国語の先生が

「勉強は感動するためにある。例えばドラえもんを知らなくて、山中でドラえもんを見かけても『あぁ、青いたぬきか』と思うだけでしょ。知っているだけで『ドラえもんだ!』となるでしょ。」

みたいなことを言っていた。

 

その時は「へぇ〜」と思っていたけど、ずっと心に残っているということは心に響いたんだろうなと思う。

 

例えば放牧地を見ていても、(農学部の夫に教えてもらったんだけど)、牛はベロで草を巻き取って食べる、馬は前歯で草を齧り取るとので、食べた跡を見ればどっちが草を食べたか分かる、みたいな話をしていた。

知識によって見える景色は違うんだなーと実感する。

 

話が逸れた。

あともう一つ勉強に関してなぜか心に残ってることがある。

大学の卒業式の日、おなじ専攻の人が一言として言ってた事なんだけど

「今はまだ大学という場所で学んだ意味や意義は分からないかもしれません。しかし、卒業した後、いつか、数年後なのか数十年後なのか、大学に行った意味を理解できる時が来ると思います」みたいな言葉を言っていた。

(わたしは一年遅れての卒業なので)その人は一つ下の学年で、しかし確か年上の人で、ちょっと変わっているけどバイタリティ旺盛な人で、

歳が近いのにも関わらず「教授のようなことを言ってる…」と思って聞いていたのだけど

なんだかずっと心に残っているわけであります。

 

この言葉が心に残っていると言うことは、どうにかして消化したい言葉なのかもしれないなと思っています。

 

⬛︎読んでいた本

寺本 潔『子ども世界の地図―秘密基地・子ども道・お化け屋敷の織りなす空間』

古本屋で何気なく手に取った本。別の本を読んでいた時に参考文献として載っており、「え!持ってるじゃん!」と興奮して読み始めたのであります。

子どもたちがどのように世界を捉え、発達とともにどのように世界を広げていくのか、という研究で面白かったです。

子供の描く地図の中には「抜け道」とか「秘密基地」とか「ここは怖いところ」とか「住み着いてるねずみ」とかユニークで面白かった!

 

アンのゆりかご―村岡花子の生涯―(新潮文庫)

花子とアンは朝ドラのタイトルだった、私が読んだのはこれ。実は赤毛のアンはなんとなく知っている程度で、読んだことがない…。村岡花子さんの生涯が書かれているのだけど、国が戦争に染まりゆき友達が「敵国の人」とみなされていく中でバトンを渡され、美しい物語を届けたいと奮闘する様子が良かったよ…!

 

言語聴覚士の音響学入門 2訂版

専門学校時代まじで音響学が分からなすぎてこれ3回通しで読んだ思い出の本

勉強した〜!という思い出の本

専門的な知識のところは頭捻りながら消化したけど、コラムのところは音の不思議さが面白かっ。

教科書全読みは非効率な勉強方法のひとつだとは思うけど、何が分からないか分からない時や、試験で無意識下で正しい選択肢を選び取るには良い作業なのかなと思っている。