I swam in the ocean

自分の中の何かしらのアンソロジーみたいなものです

生きるのは大変なのか?

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これまでたぶん30回ほど見た夢がある。

体操服を忘れる夢である。

体操服を忘れるだけじゃなくて、そもそも今日は体育があるのかどうかの時間割が分からなかったり、体操服を忘れたのを気づいても取りに帰れない状況だったり、取りに帰ろうと走っても空気の粘度が高いのか遅々として進まなかったりと、散々な夢ばかりである。


指定の体操服が必要な体育なんて、高校生で終わりだし、高校を卒業して9年も経つ。

なんで、社会に出てから何度もこんな夢をみるのだろう。


小さい頃からもともと忘れ物が多かったし、明日の時間割が分からなくてよく友達にメールをしていた。

学生の頃はレポートを書いても「何が言いたいのか分からない」「読みにくい」と言われ。

社会人になっても、仕事が遅いし、言われたことをメモしても忘れるし、一度聞いても分からないし、書類の整理整頓ができずにどんどん紙がたまっていく。

家では大雑把な片付けはできても、細かい整理整頓ができずに散らかりやすい。

家族からも仕事場の人からも、「ちょっと注意が悪いんじゃない?」と言われたこともある。


「天然」もよく言われる。

天然なんて、柔らかい言葉のオブラートに包んだだけの「ただのバカ」だと思っている。

天然と言われるたびに、しまった、またやらかしてしまったのか、と思う。

そういう人多いんじゃないかあな。

文脈によっては「愛されキャラ」とかもそうじゃないかな。


言葉はストレートに良い意味だけを使っていきたい。


仕事柄、発達障害の勉強をしたけど、これって私のことじゃないか、とよく思った。一回検査をしてもらうべきか、と思ったけど、検査をしたところで仕事は続けていかねばならないし、そうでなければ食べて遊んで暮らせない。

(私は検査をする側の仕事をしている。何が何だか。)


障害に関する勉強もたくさんしたけど、実は障害って相対的な部分があるんだなと思った。


私もできる環境や場面であればできる。

できない環境や場面であればできない。

そういうことなんだよな。


これからもできない私は私のできる範囲で、まわりにでくのぼう、天然と思われながら生きるのである。


障害ってなんだろう、という面白い本

壊れた脳 生存する知 (角川ソフィア文庫)

自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心

ぼくには数字が風景に見える (講談社文庫)