I swam in the ocean

自分の中の何かしらのアンソロジーみたいなものです

ひとはみな ひとわすれゆく さくらかな

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タイトルは黒田杏子さんの俳句である。

わたしはこの俳句を見て、人生の最後に、たくさんの人に訪れるであろう記憶障害のことを思った。

 

祖父が私を忘れつつある。95歳だから当たり前かもしれない。

 

私の顔を見てもピンとこなくなったことが分かる。名前を言えば、あぁそうかそうかと言ってくれるけれど、しばらくすれば名前を思い出せなくなっている。

別れ際「あの、名前がすぐ出てこんけど、元気で」と言ってくれる。申し訳なさそうに。

 

祖父の中では私は徐々に小さくなっていると思う。年齢も、覚えている範囲も。

名前を覚えていることが大事とは思わないし、わたしが祖父を覚えていれば良いので、私は全然問題ないのだけど、祖父は申し訳なさそうにしているのが本当に悲しい。

 

祖母も認知症である。私のことは覚えてくれているようだが、記憶は30秒程度で、同じことを聞いてくる。

「ヤクルト飲むね?ひもじくないね?」

「お腹が大きいね、いつ生まれると?頑張ってね」

「いつ帰ると?新幹線?お見送りいこうか、何時ね?」

「仕事はなんしよっと?ご飯は何時になるね?」

全て私のことについて、心配してくれる質問ばかりである。

 

祖母は認知症の初期の時、忘れていくことに怯えていた。そりゃそうだろうと思う。今は忘れたことも忘れていくため、少し気分は和らいでくれたのだろうか。

 

忘れることに悲しみを覚えずにいて欲しいと思う。祖父母が安全な場所で幸せならそれで良いと思う。

 

認知症は、近いエピソードから忘れていく。イメージとしては、筍とか玉ねぎみたいに、周りの皮から徐々に忘れていき、自分の中心や核や過去に近い部分だけが残っていくのだと思う。

 

記憶に関しては、専門学校の時に色々勉強したものの、それとは関係なく2つとても印象に残っていることがある。

 

一つ目は、大学の時教授が「物はすべての情報を覚えて記憶しています。ただその情報を人間が取り出す技術がないだけ」と言っていことだ。

人も、すべての記憶はあるものの、それを取り出す方法が徐々に分からなくなるんじゃないかと感覚的に思う。(科学的や専門的には違うと思うけど。)

二つ目は、とある本で、記憶は小部屋がいくつもあるようなもので、ふいにそこにたどり着くことがあると書いてあったことだ。

記憶を小部屋とするのが面白かった。たしかにふいに迷い込む日がある気がする。

 

科学的なことを言えば、脳の海馬の部分だったり、ヤコブレフの回路、パペッツの回路などの問題だろうけど、やはり記憶がその人の人生や生活に大きく関わっているだけあり、感情的な部分が科学的な部分を超えていくような感じがする。

 

最後に…

亡くなった母方の祖母も最後は認知症で、私のことなんか分からなくなっていた。

アル中であばれて精神病院に入院したり、喧嘩で包丁を持ち出して壁に刺していたりと過激な人だったけど、最期は穏やかであった。

 

母から聞いた話だが、祖母は心配であること、心配であったことを現在から過去に遡るように何度も母に質問していたようだった。

そうやって心配事を精算していったそうだ。

 

最近読んだ「戦争は女の顔をしていない」という本がある。若い時代を戦争に奪われた人々の語りが集められている。

戦後あんなに毎日苦しんでいたのに、語るとなると忘れていることを嘆く場面も多くあった。

 

記憶とは救いなのだろうか、絶望なのだろうか。そんなことを思う。

 

⬛︎記憶などの本

ペコロスの母に会いに行く

認知症の人の、現在・過去・あの世・この世・夢の混じり合うところがかなりリアルだなと思った。

 

ちいさなちいさな王様

記憶の小部屋の話はこの本ではなかったろうか。この王様は、歳をとるにつれ体は小さくなっていき、夢や周りのものは相対的に大きくなっていく。

 

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

戦争を語る時、心を守るために意図的に忘れてしまったこと、忘れようとして忘れられなかったこと、いろいろな思いが込み上げてくる女性たちの語りは読んでいて悲しい。彼女らが記憶を語るのも、精算したかったからではないのだろうか。

 

博士の愛した数式 (新潮文庫)

記憶障害のある博士とのお話。「忘れる」ということが人にどんなに恐怖や悲しみを与えるのか。博士が記憶障害を悲しんでいるところが妙に印象に残っている。